2009年12月17日

一般環境中に蓄積されているダイオキシン類の対策

一般環境中に放出されるダイオキシン類は大きく減少したが、過去に製造されたダイオキシン類は土壌や底質に蓄積されている。底質に蓄積されたダイオキシン類の本格的な処理が進展しておらず、早急な対応が求められていることを国土交通省が「底質ダイオキシン類対策の基本的考え方」で認めている。このように底質汚染対策が遅れているためダイオキシン類等の汚染物質は徐々に拡散しており、自然環境や水産に影響する範囲が拡大している。

環境省は土壌の環境基準(1,000pg-TEQ/g以下但し、250pg-TEQ/g以上の場合には、必要な調査を実施すること)を定めているが土壌汚染対策法の指定基準には定めが無い。なお、大阪府等の自治体は独自に条例を設けてダイオキシン類の調査・対策の手順を定めている。 ダイオキシン類は、木材などに含まれるリグニンという成分と分子構造が似ている。このため、リグニンを分解する酵素群を持つ白色腐朽菌等を使用してダイオキシン類に汚染された土壌を浄化するバイオレメディエーション技術が研究されている。

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ダイオキシン類は河川や港湾の底質に多く蓄積されており、アナゴなどの水底で棲む魚介類のダイオキシン類濃度が高いことを農林水産省等が発表している。また環境省は底質暫定除去基準値以上のPCBを含む底質を除去するように政令で通達している。また、底質ダイオキシン類の環境基準(150pg-TEQ/g)を定めており、環境基準を超過する底質は、可及的速やかに対策を講じることが行政の目標である。

過去に、どんなものを燃やしてもダイオキシンが発生すると騒がれたが、ダイオキシン類は塩素を含む物質が不完全燃焼したときに発生する物質である。またその発生量は、燃やした物質に含まれる塩素濃度が0.1~50%程度の場合は濃度にはほとんど関係なく、燃焼条件で決定される。

2009年12月01日

狩猟

狩猟(しゅりょう)とは、野生動物特に鳥類・哺乳類を捕獲することである。ハンティング (Hunting)ともいう。

漁労や採集活動と並んで、人間社会の最初期から存在する生業とされている。
狩猟の最たる目的は、肉・皮革・油脂・羽毛・骨・牙といった、人間の生活に不可欠なものや産業的に価値のある資材を獲得することである。農耕や牧畜の普及以前から今日に至るまで世界の随所で行われている。時代が降りるにつれ、牧畜業が発達した地域では食糧を得る目的での狩猟は減少した。

近代以降は、生活の必需品を得る目的よりも象牙やアザラシ・ヒョウの毛皮といった特に商品価値の高い資材の獲得を目的に大規模な狩猟が行われ、特定の種の生息数が激減するなどの生態系への深刻な影響が現れている。狩猟が行われる地域の法規や、絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(ワシントン条約)で制限が加えられても密猟は後を絶たない。
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第二の目的は人間の生活環境にとって不都合を起こす動物を駆除することである。これには主に3つのケースがある。ひとつは直接的に人間や住居を襲う動物を撃退すること、次は飼育している動物や栽培している植物を捕食する動物を駆除すること、もうひとつは従来は存在しなかった外来種の侵入により生態系が乱されることの防止策として選択的に駆除することである。この目的の特殊な例として、人間が特定の種の個体数を意図的に増加・減少させてしまった結果、その生態系のバランスが崩れ、それを修正するために別の種を狩猟するというかたちがある。この目的で捕獲した鳥獣は、副次的に資材を得るために用いる場合がある。

2009年11月27日

米軍の戦争初期の魚雷は

米軍の戦争初期の魚雷は性能が悪く命中しても爆発しないことがたびたびあった。海軍に徴用された捕鯨母船第三図南丸は、1943年7月24日米潜水艦に大量の魚雷を受けたが、ほとんどが不発で、船体に魚雷が突き刺さったままトラック島に曳航されてきた。その魚雷が突き刺さった様がかんざしを髪に差した花魁(おいらん)のようだったことから、「花魁船」と言われた。しかし大戦末期になるとアメリカ軍は不発魚雷の欠点を克服したうえ、TNT火薬の1.6倍の破壊力を持つHBX爆薬による魚雷を用いるようになり、日本の船舶に大きな被害を与えた。

日本で、試験的に装甲の少ない艦底で爆発するように凧揚げの様に浮きを引っ張って浮きが敵艦の側面に接触した時に艦底の魚雷が起爆する構造の物も考案されたが、機関として電気モーターしか使用できず、速度も30ノットに制限され、射程距離も短かったため、実戦では試験的に使用されたのみであったが、戦果をあげている。
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現代の魚雷は目的により大きく2種類に分類される。一つは主として対艦攻撃用の大型・長射程の魚雷であり、長魚雷(重魚雷)と呼ばれる。もう一つは対潜水艦攻撃用の小型・短射程の魚雷であり、短魚雷(軽魚雷)と呼ばれる。対艦ミサイルの発達により長魚雷は数を減らしており、潜水艦搭載用の一部を除き、水上艦用のものなどはすでに用いられていない。短魚雷が現代の魚雷の主流であり、水上艦・航空機などに搭載される。短魚雷は誘導兵器であり、誘導魚雷を指して短魚雷と呼ぶ場合もある。

魚雷の直径については、内部容積の大きさに直結し、射程や炸薬重量に影響があるため、砲の口径同様に重要である。魚雷の直径は砲ほどではないが魚雷のクラス分けにも用いられる。全長、重量、その他の要素は相互に影響される。航空機発射型魚雷の場合、重量が重要であり、装着点や発射速度に影響がある。近年の魚雷設計に於いて補助魚雷は盛んに開発されていて通常は集合型パッケージが使用される。

2009年11月13日

家紋の起源は

家紋の起源は古く平安時代後期にまで遡る。聖徳太子が生きていた奈良時代から調度や器物には装飾目的として様々な文様が描かれてきたが、平安時代になると次第に調度品に文様を描くことは視覚的な美しさだけでなく、公家(貴族)といった朝廷に仕える人々が各家固有の他家と区別する目印としての特色を帯びてきた。そして平安末期に近づくと、西園寺実季や徳大寺実能といった公家が独自の紋を牛車の胴に付け都大路でその紋を披露して歩き回り始める。これが家紋の起こりであるという説が最も一般的と言われている。新井白石が「蓋(きぬがさ)」に用いられた紋も家紋の起こりであると自著で記しているが、この説には異説があり結論は出ていない。

その後、公家の間で流行し、様々な家紋が生み出されていく。例えば上記の西園寺実季は「鞘絵」を、徳大寺実能は「木瓜」を、菅原一族などは梅紋をといった華美な紋を家紋にしている。しかしながら文様の延長線上としての色彩的な意味合いが強く、鎌倉時代にかけて徐々に、その後の帰属の証明や家紋の意味合いや役割に、発展・変化していった。
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武家(武士)の家紋は公家よりも遅れ、源平の対立が激化し始めた平安末期に生まれる。戦場において自分の働きを証明、また名を残す自己顕示のため各自が考えた固有の図象を旗幕、幔幕にあしらったことが、その始まりであったと考えられている。源氏が白旗、平氏が赤旗を戦場での敵味方の区別を付けやすくするための認識性のために掲げ戦った。旗に家紋の原型となる紋章を描くことはなかったが、家来である武蔵七党である児玉党は後の児玉の家紋になる軍配団扇紋の「唐団扇」を軍旗に描いている(源平合戦時、党首を勤めていたのは庄太郎家長である)。

2009年11月02日

ギャップ式避雷器

ギャップ式避雷器
「ギャップ」とは、放電電極(放電間隙=放電ギャップ)のことであり、一般にGDT単体もしくはこれを含むものをいう。
続流を生じるGDTを電力系統などにそのまま用いることは困難である。電力系統などに用いるためには、放電電極に続流を効果的に遮断するためのものを付加する必要がある。古くは放電電極に直列に炭化ケイ素粉末の焼結体などを接続して用いた。これを直列ギャップ付避雷器といい、炭化ケイ素粉末の焼結体などのことを特性要素という。放電電極により、その電流の変化はあたかも「弁」作用による液体の流れのようになることから、「弁抵抗避雷器」と呼ばれる。
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なお、炭化ケイ素粉末の焼結体の電圧-電流特性は理想的な特性要素のものからは外れており、そもそも放電電極に直列に接続して相互に特性を補完する必要がある。それでもなお、炭化ケイ素粉末の焼結体を特性要素として用いた直列ギャップ付避雷器は、悪条件が重なると続流遮断に失敗することがある。
今日の特性要素の主流は、理想的な特性要素の電圧-電流特性に近い特性を持ち、そもそも直列ギャップを必要としない酸化亜鉛粉末の焼結体となっている。応答遅れなどの点では後述のギャップレス避雷器に劣るが、酸化亜鉛粉末の焼結体の登場により最大の欠点が克服され、本来の長所、すなわちGDTと特性要素の組み合わせにより、所望のものが比較的簡単に得られること、静電容量を小さくすることができることなどが活きるようになり、今日、幅広く使われている。なお今日、酸化亜鉛粉末の焼結体の優れた特性により「並列ギャップ付避雷器」もある。

2009年10月23日

 編入学試験の試験科目は

 編入学試験の試験科目は、語学・専門科目・面接という場合が多いが、理系学部では、さらに理数系科目が追加される場合がある。試験は各大学・学部の独自作成問題による。また、国立大学の理系の特定学部では、主に短期大学、高等専門学校の同一専攻の卒業見込み者を対象に推薦編入学制度を持つ場合も多い。私立大学が系列や提携の短期大学・短期大学部に対して推薦編入学枠を用意している場合もある。

 選考実施の時期は 夏季~9月にかけて行われる場合や年度末の2~3月にかけて行われる場合が多い。編入学定員を設けて行う場合の多くは前者であり、後者の場合は欠員補充の意味合いが強い。しかし、12月に実施されるケースもあり、選考時期として特に統一された時期は無く、各大学・学部の自主性に委ねられている。
美月はおギャル
美姫のハムちゃん
姫林檎
楓がビックリ
歩く男
宝踏み
暴れん坊ママ
魔法屋敷
未羽ちゃん目には目を
夢の果てに
明日のライフレシピ情報
夜をブッ飛ばせ!
優 の結婚戦争
優奈のお受験
悠の初恋
悠翔の結婚準備
遊園地
遥の蛇の道は蛇だ
陽斗の八方美人
嵐の中で

 編入学と類似する概念としては、ある学校に在籍している人がそのまま別の学校に学籍が移動する転学(てんがく)や、学校内で学籍が移動する転籍(てんせき)、同一学校内で学部・学科が移動する転部(てんぶ)・転科(てんか)などがある。(なお、転学による入学は、転入学(てんにゅうがく)とも呼ばれている。)

 一般的に日本では、校種が同一の学校間を移るときには転学の手続きが必要であり、校種が異なる学校間を移るときには退学および編入学の2つの手続きが必要である。なお、例えば、外国の現地学校に通っていた人が帰国して日本の学校に通うときなどは、退学および編入学の手続きが必要である。(ただし、校種が同一の学校間を移るときに、退学および編入学の手続きを行うこともできる。)

2009年06月22日

数え切れないほど多くの主題が、心の哲学で

数え切れないほど多くの主題が、心の哲学で発展してきた考えによって影響を受けている。わかりやすい例で言えば、死やその定義的性質の本質、感情の、知覚の、そして記憶の本質は何か、といった問題である。人が何ものであり、人の同一性は何によって保たれるのかといった問題についても、心の哲学は大いに関係がある。ここでは心の哲学に結びついたうちでも、とくに注意を注がれている2つの主題について述べよう。すなわち自由意志と自己の問題である

詳細は「自由意志」を参照

心の哲学の文脈において、自由意志の問題は新たな重要性を持つようになった。このことは、少なくとも唯物論的決定論者にとって重要である。[17] 決定論者の立場からすれば、自然法則は完全に物質的世界の行く末を決定する。心的状態は、そして「意志」についてもまた、なんらかの物質的状態であるだろう。このことが意味するのは、人間の行動や決定が完全に自然法則によって決定されるということである。この論法をもっと先に進める者もいる。すなわち、人々は自分自身では、何を欲し何をするか決定することができない。結局のところ、人々は自由ではない
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一方で、両立主義者(compatibilists)は、上記の議論を拒否する。この立場をとる人々は次のように言う。「我々は自由か?」という問いは、我々が自由という語の意味を何にするか決定する場合にのみ答えることができる。自由であることの反対は「原因がある」ことではなく、「強制される」または「強要される」ということである。決定されていないというだけでは、自由であるというに十分ではない。自由な行為は、行為者がもし他のことを選んだとしたら、他の事をするのが可能だった場合にのみ、存在する。この意味で、人は決定論が真である場合でさえも自由であり得るのだ。[65]  哲学史上、最も重要な両立主義者はデイヴィッド・ヒュームである。[66] 今日、両立主義の立場は、たとえばダニエル・デネットによって擁護されているし、[67] 二元的パースペクティブの立場から擁護する人にマックス・ヴェルマンがいる。

他方で、非両立主義者(incompatibilists)の中にも、自由意志を否定する議論を拒否する者たちが大勢いる。彼らは起因主義(originationism)と呼ばれるより強い立場で、意志の自由を信じている。[65] これらの哲学者たちは世界の行方は自然法則によって完全には決定されないと主張する。少なくとも意志が決定される必然はない、それゆえに意志は潜在的に自由である。哲学史上、最も有力な非両立主義者はイマヌエル・カントである。[69] 非両立主義の立場に対する批判者は、非両立主義者が自由の概念を場合に応じて変えて用いていると批判している。批判者の主張は次のとおりである:すなわち、もし我々の意志が何かによって決定されないならば、我々はまったく偶然に自分が何を望むかを望むだろう。そして我々が望んだものが純粋に偶発的なものであるならば、我々は自由ではない。つまり、もし我々の意志が何かによって決定されないのならば,我々は自由ではないのだ

2009年06月05日

封建領主(ほうけんりょうしゅ、feudal lords)

封建領主(ほうけんりょうしゅ、feudal lords)又は領主(りょうしゅ、lords)とは、封建制における領主階級をさす用語。ヨーロッパ中世の封建制において見られる。日本の中世・近世における領主層が封建領主と呼ばれたこともあった。

中世の西ヨーロッパで特徴的にみられた独自の社会は封建社会とよばれている。

封建領主は、封建社会における支配層を形成し、国王や教会から、諸侯、騎士などからなる。封建領主相互に階層性があり、より上級の領主(とくに国王)から与えられた土地(封土、feudum)とその住民に対する支配権を領主権(不輸不入権)という。封建領主のあいだでは、相互に契約にもとづいた主従関係が結ばれ、主君は臣下に土地を与え、保護するかわりに、臣下は主君に忠誠を誓い、軍役の義務を果たさなければならなかった。この契約は双務的性格をもつもので、一方が義務を履行しない場合は契約が解消されることもあった[1]。君主によって授与された封土はいくつにも分割されうるもので、君主からみれば、直臣、下級家臣へと連なる階層構造をもつと同時に、臣下からみれば複数の主君をもつこともあった。
スポット ケア 転職 子育て 法人設立 実益 アロマ 自動車 美容整形 古着 教材 特産物 資格 旅館 審美歯科 就職 健康 資産運用 新築 美容整形 防犯 成人病 アクセサリー 学校 贈り物 検定 交通地図 ネイル 遊園地 しわ取り 雇用 懸賞 育毛 分譲 興信所 美容整形 生命 成人病 リサイクル スクール ファッション 海外留学 観光 美容整形 交通 審美歯科 キャッシング ブログ 弁護士 引越し

これらの封土は荘園として経営され、荘園内の農民を支配し、封建領主の館を中心として自給自足を原則とする荘園制がかたちづくられた。領主権には裁判権、警察権や農民からの貢納を徴収する権利などがあり、支配下の農民を保護する義務も有していた。

農民は領主直営地での労働をはじめ、賦役、貢納、結婚税、死亡税、人頭税など多くの義務と重い負担を負い、また、教会にも生産物の10分の1(十分の一税)を納めなければならなかった。家族・農具・住居の所有権は認められたが、職業選択の自由と移転の自由は認められず、また、農民保有地を自由に処分することも認められなかったので農奴とよばれる。

なお、こうしたヨーロッパの封建制(Feudalism)は、ゲルマン国家における従士制と古代ローマ帝国末期の教会領にみられた恩貸地制の双方に起源をもち、荘園制(農奴制)と結びつくことで成立したとされる。

2009年05月01日

結城秀康

結城 秀康(ゆうき ひでやす)は、戦国時代、安土桃山時代の武将、江戸時代の大名。越前国北ノ庄藩(福井藩)初代藩主。越前松平家宗家初代。

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天正2年(1574年)、家康の次男として遠州浜松で生まれた。ただし、当時の家康の居城だった浜松城ではなく、浜松城下の宇富見村(宇布見村)。双子で誕生したとの説もあり[要出典]、その相方の兄弟は永見貞愛とされている。母は三河国知鯉鮒明神の社人・永見吉英の娘で、家康の側室の於万の方(長勝院)。於万は家康の正室・築山殿の奥女中を務めていたが、家康の手が付いて秀康を身籠った。そして家康は築山殿の悋気を恐れ、於万を重臣の本多重次のもとに預けた。秀康は於万が重次に匿われている屋敷で誕生した。

幼名を於義伊(於義丸/義伊丸)と名づけられた秀康は、父家康に嫌われ、満3歳になるまで対面を果たせなかった。その対面も、あまりの冷遇に異母弟を不憫に思った松平信康による取り成しで実現したものであったと言う[要出典]。

天正7年(1579年)、武田勝頼との内通疑惑から、織田信長の命令により兄の信康が切腹させられる。このため、次男である秀康は本来ならば徳川氏の後継者となるはずであった。しかし天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和解するときの条件として、秀康は秀吉のもとへ養子(実際は人質)として差し出された。傅役に小栗大六と小姓榊原勝千代・本多仙千代(重次嫡男・後に源四郎と交替)が従う。家康より「童子切」の刀と采配を餞別として授けられる。その直後、元服して養父・秀吉と実父・家康の名を一字ずつ取り「羽柴秀康」と名乗った。

2009年04月17日

ナポリ・シチリアのブルボン(ボルボーネ)家

イタリア南部のナポリ王国とシチリア王国はもともとアラゴン王国の支配下にあったが、アラゴン王国がスペインに統合されることによって、スペイン王家の支配を受けるようになった。ナポリとシチリアは形式的に分かれているだけで、どちらもスペインの支配下にあり、フランス・ブルボン家がスペイン王となるに及んで、ブルボンの支配はこれら王国にも及んだ。ところが、スペイン・ブルボン家初代フェリペ5世即位後勃発したスペイン継承戦争でオーストリアがナポリとシチリアを占領した。オーストリアの支配は1707年から1734年まで続いた。

ポーランド継承戦争中、フェリペ5世の王子でパルマ公だったドン・カルロスが武力でナポリとシチリアを奪回し、ナポリとシチリアの王カルロ7世となった。ここにブルボン家は南イタリアをも獲得したことになる。その後、カルロ7世はスペイン王位に即位してカルロス3世となり、ナポリとシチリアは息子のフェルディナンドに譲った。これがナポリ王フェルディナンド4世(シチリア王フェルディナンド3世)である。

19世紀始めのナポレオン戦争でナポリは一時フランス帝国の支配下に落ちたが、1816年のウィーン条約によって返還され、両シチリア王国として再出発した。ナポリ王フェルディナンド4世(=シチリア王フェルディナンド3世)は両シチリア王フェルディナンド1世となった。両シチリアのブルボン家は4代続いたが、1860年にガリバルディに征服され、統一イタリア王国に併合された。廃位後も家系は今日まで存続している。

ナポリ・ブルボン家歴代国王 [編集]
カルロ7世(1734年 - 1759年)
フェルディナンド4世(1759年 - 1806年)

シチリア・ブルボン家歴代国王 [編集]
カルロ7世(1734年 - 1759年)
フェルディナンド3世(1759年 - 1816年)

両シチリア王国歴代国王 [編集]
フェルディナンド1世(1816年 - 1825年)
フランチェスコ1世(1825年 - 1830年)
フェルディナンド2世(1830年 - 1859年)
フランチェスコ2世(1859年 - 1860年)

パルマのブルボン(ボルボーネ)家 [編集]
イタリア北部のパルマ公国はファルネーゼ家によって建てられた国であるが、ファルネーゼ家が断絶した際に、フェリペ5世の王妃エリザベッタ・ファルネーゼの尽力によって息子ドン・カルロス(カルロス3世)が公位を継承した。その後パルマはポーランド継承戦争の結果オーストリア・ハプスブルク家に渡るが(ドン・カルロスは代わってナポリとシチリアの王位に就く)、オーストリア継承戦争の講和条約であるアーヘンの和約で再びスペイン・ブルボン家に戻り、カルロスの弟フィリッポが公位に就いた。このフィリッポの家系をブルボン=パルマ家(ボルボーネ=パルマ家)と呼ぶ。

フィリッポの死後は息子フェルディナンドが公位を継いだが、パルマはナポレオン・ボナパルトに征服され、フェルディナンドの息子ルドヴィーコは新たに建てられたエトルリア王国の王位に就けられた。エトルリア王国はルドヴィーコの息子カルロ・ルドヴィーコの代にフランスに併合され、カルロ・ルドヴィーコはウィーン会議の結果ルッカ公となったが、ルッカ公国は1847年にトスカーナ大公国に併合され、カルロ・ルドヴィーコはパルマ公位を得た後に死去した。

その後、パルマ公は2代続くが、パルマ公国は住民投票によって1860年にサルデーニャ王国に併合されて消滅した。因みに、最後のパルマ公ロベルト1世は廃位後に24人の子をもうけており、10人の男子のうちから今日まで存続している家系もある。その一つは、ルクセンブルク大公シャルロットと結婚したフェリックス公子の家系である。ルクセンブルク大公家はルクセンブルク家あるいはナッサウ=ヴァイルブルク家の家名を用いているが、男系ではブルボン家の後裔に当たる。

フィリッポ(1720年 - 1765年) パルマ公
フェルディナンド(1751年 - 1802年) パルマ公
ルドヴィーコ(1773年 - 1803年) エトルリア王
カルロ・ルドヴィーコ(1799年 - 1848年) エトルリア王、ルッカ公、パルマ公カルロ2世ルイージ
カルロ3世(1823年 - 1854年) パルマ公
ロベルト1世(1848年 - 1860年) パルマ公
パルマ公国滅亡後のブルボン=パルマ家家長(名目上のパルマ公)

ロベルト1世(1860 年 - 1907年)
エンリコ(1907年 - 1939年)
ジュゼッペ(1939年 - 1950年)
エリアス(1950年 - 1959年)
ロベルト2世(1959年 - 1974年)
サヴェリオ(1974年 - 1977年)
カルロ・ウーゴ(1977年 - )

レジティミスト [編集]
フランス革命以後もブルボン家をフランス王家として支持した王党派をレジティミスト(Legitimists)あるいは正統派という。彼らはボナパルト家支持者であるボナパルティスト、あるいは同じく王党派とされるがオルレアン家を支持するオルレアニスト(オルレアン派)と対立しながら、今日まで存在し続けている。

シャルル10世の孫、シャンボール伯アンリ・ダルトワの死によってルイ15世の男系男子が絶えると、レジティミストの一部はオルレアニストに合流したが、一部はサリカ法に基づいてスペイン・ブルボン家の王族をフランス王家継承者に推し、今日に至っている。

現在はスペイン・ブルボン家の分家のルイス・アルフォンソ・デ・ボルボーンが「ブルボン家家長」「フランス王ルイ20世」として支持されている。これに対してオルレアニストはパリ伯兼フランス公アンリ・ドルレアン(アンリ7世)がフランス王位を主張している。オルレアン家は「パリ伯」の称号をレジティミストから認められているが、ルイス・アルフォンソが用いている「アンジュー公」の称号をフランス公は認めておらず、フランスの裁判所に提訴したことがある(訴えは退けられた)。

レジティミストのフランス王位請求者(7月革命以後) [編集]
シャルル10世(1830年 - 1836年)
アングレーム公ルイ・アントワーヌ(ルイ19世、1836年 - 1844年)
シャンボール伯アンリ(アンリ5世、1844年 - 1883年)
モンティソン伯フアン・カルロス(ジャン3世、1883年 - 1887年) スペイン王位請求者(カルリスタの王)
マドリード公カルロス・マリーア(シャルル11世、1887年 - 1909年) スペイン王位請求者
マドリード公ハイメ(ジャック1世、1909年 - 1931年) スペイン王位請求者
サン・ハイメ公アルフォンソ・カルロス(シャルル12世、1931年 - 1936年) スペイン王位請求者
スペイン王アルフォンソ13世(アルフォンス1世、1936年 - 1941年)
セゴビア公ハイメ(アンリ6世、1941年 - 1975年)
カディス公アルフォンソ(アルフォンス2世、1975年 - 1989年)
アンジュー公ルイス・アルフォンソ(ルイ20世、1989年 - )

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