2009年06月22日

数え切れないほど多くの主題が、心の哲学で

数え切れないほど多くの主題が、心の哲学で発展してきた考えによって影響を受けている。わかりやすい例で言えば、死やその定義的性質の本質、感情の、知覚の、そして記憶の本質は何か、といった問題である。人が何ものであり、人の同一性は何によって保たれるのかといった問題についても、心の哲学は大いに関係がある。ここでは心の哲学に結びついたうちでも、とくに注意を注がれている2つの主題について述べよう。すなわち自由意志と自己の問題である

詳細は「自由意志」を参照

心の哲学の文脈において、自由意志の問題は新たな重要性を持つようになった。このことは、少なくとも唯物論的決定論者にとって重要である。[17] 決定論者の立場からすれば、自然法則は完全に物質的世界の行く末を決定する。心的状態は、そして「意志」についてもまた、なんらかの物質的状態であるだろう。このことが意味するのは、人間の行動や決定が完全に自然法則によって決定されるということである。この論法をもっと先に進める者もいる。すなわち、人々は自分自身では、何を欲し何をするか決定することができない。結局のところ、人々は自由ではない
ブレイクダンス
大気化学
ヒッチハイク
投扇興
ラクロス
ダイエット
ロデオ
フードテーマパーク
ホッケー
ルームシェア
日本の演劇
熊本の湯めぐり
食の文化
お寺案内
骨の調べ
地震のおこり
筋肉事典
湯・香川
アロマ広場
チョコレート戦争


一方で、両立主義者(compatibilists)は、上記の議論を拒否する。この立場をとる人々は次のように言う。「我々は自由か?」という問いは、我々が自由という語の意味を何にするか決定する場合にのみ答えることができる。自由であることの反対は「原因がある」ことではなく、「強制される」または「強要される」ということである。決定されていないというだけでは、自由であるというに十分ではない。自由な行為は、行為者がもし他のことを選んだとしたら、他の事をするのが可能だった場合にのみ、存在する。この意味で、人は決定論が真である場合でさえも自由であり得るのだ。[65]  哲学史上、最も重要な両立主義者はデイヴィッド・ヒュームである。[66] 今日、両立主義の立場は、たとえばダニエル・デネットによって擁護されているし、[67] 二元的パースペクティブの立場から擁護する人にマックス・ヴェルマンがいる。

他方で、非両立主義者(incompatibilists)の中にも、自由意志を否定する議論を拒否する者たちが大勢いる。彼らは起因主義(originationism)と呼ばれるより強い立場で、意志の自由を信じている。[65] これらの哲学者たちは世界の行方は自然法則によって完全には決定されないと主張する。少なくとも意志が決定される必然はない、それゆえに意志は潜在的に自由である。哲学史上、最も有力な非両立主義者はイマヌエル・カントである。[69] 非両立主義の立場に対する批判者は、非両立主義者が自由の概念を場合に応じて変えて用いていると批判している。批判者の主張は次のとおりである:すなわち、もし我々の意志が何かによって決定されないならば、我々はまったく偶然に自分が何を望むかを望むだろう。そして我々が望んだものが純粋に偶発的なものであるならば、我々は自由ではない。つまり、もし我々の意志が何かによって決定されないのならば,我々は自由ではないのだ

2009年06月05日

封建領主(ほうけんりょうしゅ、feudal lords)

封建領主(ほうけんりょうしゅ、feudal lords)又は領主(りょうしゅ、lords)とは、封建制における領主階級をさす用語。ヨーロッパ中世の封建制において見られる。日本の中世・近世における領主層が封建領主と呼ばれたこともあった。

中世の西ヨーロッパで特徴的にみられた独自の社会は封建社会とよばれている。

封建領主は、封建社会における支配層を形成し、国王や教会から、諸侯、騎士などからなる。封建領主相互に階層性があり、より上級の領主(とくに国王)から与えられた土地(封土、feudum)とその住民に対する支配権を領主権(不輸不入権)という。封建領主のあいだでは、相互に契約にもとづいた主従関係が結ばれ、主君は臣下に土地を与え、保護するかわりに、臣下は主君に忠誠を誓い、軍役の義務を果たさなければならなかった。この契約は双務的性格をもつもので、一方が義務を履行しない場合は契約が解消されることもあった[1]。君主によって授与された封土はいくつにも分割されうるもので、君主からみれば、直臣、下級家臣へと連なる階層構造をもつと同時に、臣下からみれば複数の主君をもつこともあった。
スポット ケア 転職 子育て 法人設立 実益 アロマ 自動車 美容整形 古着 教材 特産物 資格 旅館 審美歯科 就職 健康 資産運用 新築 美容整形 防犯 成人病 アクセサリー 学校 贈り物 検定 交通地図 ネイル 遊園地 しわ取り 雇用 懸賞 育毛 分譲 興信所 美容整形 生命 成人病 リサイクル スクール ファッション 海外留学 観光 美容整形 交通 審美歯科 キャッシング ブログ 弁護士 引越し

これらの封土は荘園として経営され、荘園内の農民を支配し、封建領主の館を中心として自給自足を原則とする荘園制がかたちづくられた。領主権には裁判権、警察権や農民からの貢納を徴収する権利などがあり、支配下の農民を保護する義務も有していた。

農民は領主直営地での労働をはじめ、賦役、貢納、結婚税、死亡税、人頭税など多くの義務と重い負担を負い、また、教会にも生産物の10分の1(十分の一税)を納めなければならなかった。家族・農具・住居の所有権は認められたが、職業選択の自由と移転の自由は認められず、また、農民保有地を自由に処分することも認められなかったので農奴とよばれる。

なお、こうしたヨーロッパの封建制(Feudalism)は、ゲルマン国家における従士制と古代ローマ帝国末期の教会領にみられた恩貸地制の双方に起源をもち、荘園制(農奴制)と結びつくことで成立したとされる。

2009年05月01日

結城秀康

結城 秀康(ゆうき ひでやす)は、戦国時代、安土桃山時代の武将、江戸時代の大名。越前国北ノ庄藩(福井藩)初代藩主。越前松平家宗家初代。

育毛養毛・メンタルヘルス関連健康・医療COM
おもちゃ・不用品関連買物達人全国情報ガイド
教育・学習関連暮らしの教育サイト
水族館・旅行関連旅の宿泊ナビ
美容室・ネイルアート関連コスメグッツ通販総合
ビスマルク 経済支援情報
リフォーム・仏具関連快適生活ナビ
アロマテラピー関連ようこそ医療サーチ
ファッション・自動車関連買物市場全国情報ガイド
音楽・ホームステイ関連学習らんどナビ

天正2年(1574年)、家康の次男として遠州浜松で生まれた。ただし、当時の家康の居城だった浜松城ではなく、浜松城下の宇富見村(宇布見村)。双子で誕生したとの説もあり[要出典]、その相方の兄弟は永見貞愛とされている。母は三河国知鯉鮒明神の社人・永見吉英の娘で、家康の側室の於万の方(長勝院)。於万は家康の正室・築山殿の奥女中を務めていたが、家康の手が付いて秀康を身籠った。そして家康は築山殿の悋気を恐れ、於万を重臣の本多重次のもとに預けた。秀康は於万が重次に匿われている屋敷で誕生した。

幼名を於義伊(於義丸/義伊丸)と名づけられた秀康は、父家康に嫌われ、満3歳になるまで対面を果たせなかった。その対面も、あまりの冷遇に異母弟を不憫に思った松平信康による取り成しで実現したものであったと言う[要出典]。

天正7年(1579年)、武田勝頼との内通疑惑から、織田信長の命令により兄の信康が切腹させられる。このため、次男である秀康は本来ならば徳川氏の後継者となるはずであった。しかし天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和解するときの条件として、秀康は秀吉のもとへ養子(実際は人質)として差し出された。傅役に小栗大六と小姓榊原勝千代・本多仙千代(重次嫡男・後に源四郎と交替)が従う。家康より「童子切」の刀と采配を餞別として授けられる。その直後、元服して養父・秀吉と実父・家康の名を一字ずつ取り「羽柴秀康」と名乗った。

2009年04月17日

ナポリ・シチリアのブルボン(ボルボーネ)家

イタリア南部のナポリ王国とシチリア王国はもともとアラゴン王国の支配下にあったが、アラゴン王国がスペインに統合されることによって、スペイン王家の支配を受けるようになった。ナポリとシチリアは形式的に分かれているだけで、どちらもスペインの支配下にあり、フランス・ブルボン家がスペイン王となるに及んで、ブルボンの支配はこれら王国にも及んだ。ところが、スペイン・ブルボン家初代フェリペ5世即位後勃発したスペイン継承戦争でオーストリアがナポリとシチリアを占領した。オーストリアの支配は1707年から1734年まで続いた。

ポーランド継承戦争中、フェリペ5世の王子でパルマ公だったドン・カルロスが武力でナポリとシチリアを奪回し、ナポリとシチリアの王カルロ7世となった。ここにブルボン家は南イタリアをも獲得したことになる。その後、カルロ7世はスペイン王位に即位してカルロス3世となり、ナポリとシチリアは息子のフェルディナンドに譲った。これがナポリ王フェルディナンド4世(シチリア王フェルディナンド3世)である。

19世紀始めのナポレオン戦争でナポリは一時フランス帝国の支配下に落ちたが、1816年のウィーン条約によって返還され、両シチリア王国として再出発した。ナポリ王フェルディナンド4世(=シチリア王フェルディナンド3世)は両シチリア王フェルディナンド1世となった。両シチリアのブルボン家は4代続いたが、1860年にガリバルディに征服され、統一イタリア王国に併合された。廃位後も家系は今日まで存続している。

ナポリ・ブルボン家歴代国王 [編集]
カルロ7世(1734年 - 1759年)
フェルディナンド4世(1759年 - 1806年)

シチリア・ブルボン家歴代国王 [編集]
カルロ7世(1734年 - 1759年)
フェルディナンド3世(1759年 - 1816年)

両シチリア王国歴代国王 [編集]
フェルディナンド1世(1816年 - 1825年)
フランチェスコ1世(1825年 - 1830年)
フェルディナンド2世(1830年 - 1859年)
フランチェスコ2世(1859年 - 1860年)

パルマのブルボン(ボルボーネ)家 [編集]
イタリア北部のパルマ公国はファルネーゼ家によって建てられた国であるが、ファルネーゼ家が断絶した際に、フェリペ5世の王妃エリザベッタ・ファルネーゼの尽力によって息子ドン・カルロス(カルロス3世)が公位を継承した。その後パルマはポーランド継承戦争の結果オーストリア・ハプスブルク家に渡るが(ドン・カルロスは代わってナポリとシチリアの王位に就く)、オーストリア継承戦争の講和条約であるアーヘンの和約で再びスペイン・ブルボン家に戻り、カルロスの弟フィリッポが公位に就いた。このフィリッポの家系をブルボン=パルマ家(ボルボーネ=パルマ家)と呼ぶ。

フィリッポの死後は息子フェルディナンドが公位を継いだが、パルマはナポレオン・ボナパルトに征服され、フェルディナンドの息子ルドヴィーコは新たに建てられたエトルリア王国の王位に就けられた。エトルリア王国はルドヴィーコの息子カルロ・ルドヴィーコの代にフランスに併合され、カルロ・ルドヴィーコはウィーン会議の結果ルッカ公となったが、ルッカ公国は1847年にトスカーナ大公国に併合され、カルロ・ルドヴィーコはパルマ公位を得た後に死去した。

その後、パルマ公は2代続くが、パルマ公国は住民投票によって1860年にサルデーニャ王国に併合されて消滅した。因みに、最後のパルマ公ロベルト1世は廃位後に24人の子をもうけており、10人の男子のうちから今日まで存続している家系もある。その一つは、ルクセンブルク大公シャルロットと結婚したフェリックス公子の家系である。ルクセンブルク大公家はルクセンブルク家あるいはナッサウ=ヴァイルブルク家の家名を用いているが、男系ではブルボン家の後裔に当たる。

フィリッポ(1720年 - 1765年) パルマ公
フェルディナンド(1751年 - 1802年) パルマ公
ルドヴィーコ(1773年 - 1803年) エトルリア王
カルロ・ルドヴィーコ(1799年 - 1848年) エトルリア王、ルッカ公、パルマ公カルロ2世ルイージ
カルロ3世(1823年 - 1854年) パルマ公
ロベルト1世(1848年 - 1860年) パルマ公
パルマ公国滅亡後のブルボン=パルマ家家長(名目上のパルマ公)

ロベルト1世(1860 年 - 1907年)
エンリコ(1907年 - 1939年)
ジュゼッペ(1939年 - 1950年)
エリアス(1950年 - 1959年)
ロベルト2世(1959年 - 1974年)
サヴェリオ(1974年 - 1977年)
カルロ・ウーゴ(1977年 - )

レジティミスト [編集]
フランス革命以後もブルボン家をフランス王家として支持した王党派をレジティミスト(Legitimists)あるいは正統派という。彼らはボナパルト家支持者であるボナパルティスト、あるいは同じく王党派とされるがオルレアン家を支持するオルレアニスト(オルレアン派)と対立しながら、今日まで存在し続けている。

シャルル10世の孫、シャンボール伯アンリ・ダルトワの死によってルイ15世の男系男子が絶えると、レジティミストの一部はオルレアニストに合流したが、一部はサリカ法に基づいてスペイン・ブルボン家の王族をフランス王家継承者に推し、今日に至っている。

現在はスペイン・ブルボン家の分家のルイス・アルフォンソ・デ・ボルボーンが「ブルボン家家長」「フランス王ルイ20世」として支持されている。これに対してオルレアニストはパリ伯兼フランス公アンリ・ドルレアン(アンリ7世)がフランス王位を主張している。オルレアン家は「パリ伯」の称号をレジティミストから認められているが、ルイス・アルフォンソが用いている「アンジュー公」の称号をフランス公は認めておらず、フランスの裁判所に提訴したことがある(訴えは退けられた)。

レジティミストのフランス王位請求者(7月革命以後) [編集]
シャルル10世(1830年 - 1836年)
アングレーム公ルイ・アントワーヌ(ルイ19世、1836年 - 1844年)
シャンボール伯アンリ(アンリ5世、1844年 - 1883年)
モンティソン伯フアン・カルロス(ジャン3世、1883年 - 1887年) スペイン王位請求者(カルリスタの王)
マドリード公カルロス・マリーア(シャルル11世、1887年 - 1909年) スペイン王位請求者
マドリード公ハイメ(ジャック1世、1909年 - 1931年) スペイン王位請求者
サン・ハイメ公アルフォンソ・カルロス(シャルル12世、1931年 - 1936年) スペイン王位請求者
スペイン王アルフォンソ13世(アルフォンス1世、1936年 - 1941年)
セゴビア公ハイメ(アンリ6世、1941年 - 1975年)
カディス公アルフォンソ(アルフォンス2世、1975年 - 1989年)
アンジュー公ルイス・アルフォンソ(ルイ20世、1989年 - )

ルーズ リング このゆび セラピー マンタ ドッグフ リルック プッシュ ファンド 水晶パート キバナ ピラフ 時の雫 ドリブル トポス ミキシング ちょぼく ラリアン ブログ タティック リューマチ アーミン ラクターゼ ヨットレ ロケア ファイユ ラケット きつおん タービン マドン アルカイ ナビタラワ ブレザー ブルジ オルグゴン トラン ナビロト スキルア クロニ スタン オーバ リスク ドック サイト スティッ きくま パシフ チルバ カツ上 カウボーイ

2009年04月02日

四神相応

四神相応(しじんそうおう)は、中国・朝鮮・日本において、天の四方の方角を司る「四神」の存在に最もふさわしいと伝統的に信じられてきた地勢や地相のことをいう。四地相応ともいう。なお四神に中央に「黄龍」(おうりゅう)、あるいは麒麟を加えたものが「五神」(ごじん) と呼ばれている。ただし現代では、その四神と現実の地形との対応付けについて、中国や韓国・朝鮮と日本では大きく異なっている。
パンチ ナビスパ キログラム ユーロ 風花 スマート ラビット リュクス リバー ナビピ スタチオ パラダイス 朝の山道 タイム すいば レバー クニカル ハイレ アーマー マレーシア まーこ ビフテキ 生かす マラケ 自然薯 ボック プラチナ ライフプ オマーン ドーハ 道しるべ オーガ うみわに ミーズ あかちゃ トロンボ 逢坂の関 スポッ シティ ミックス ドマーク ジニーメイ スプレッド はっさく フリート フォトン ブレード シアトー タイム ハウス

中国・朝鮮 [編集]
中国や朝鮮での風水における四神相応は、背後に山、前方に海、湖沼、河川の水(すい)が配置されている背山臨水の地を、左右から砂(さ)と呼ばれる丘陵もしくは背後の山よりも低い山で囲むことで蔵風聚水(風を蓄え水を集める)の形態となっているものをいう。この場合の四神は、背後の山が玄武、前方の水が朱雀、玄武を背にして左側の砂が青龍、右側が白虎である。

日本の京都においても、北の丹波高地を玄武、東の大文字山を青龍砂、西の嵐山を白虎砂、南にあった巨椋池を朱雀とする対応付けが可能で、標準的な風水の観点から正しく京都は四神相応の地であった。ただし巨椋池が完全に埋め立てられてしまったために、京都の四神相応は破壊されている。なおかって朱雀大路を見通すことのできた船岡山は、玄武とするには小規模である。標準的な風水の観点では、船岡山を玄武を伝ってやってくる山龍が目指す星峰と解釈している
現代の日本では次表のような、四神を「山川道澤」に対応させる解釈が一般に流布している。しかし、この対応付けは古来から定まっていたというわけではない。

「四神=山川道澤」説の典拠となっているのは、『作庭記』である。『作庭記』は寝殿造を念頭においた庭園の作り方を述べた書物であり、理想の庭園の姿として「四神=山川道澤」説を記述する。そして四神としての山川道澤がない場合に、特定の種類の樹木を特定の本数植えることで「四神=山川道澤」の代用となることを説いている。

現在の日本で四神を「山川道澤」に対応させる解釈が一般的となったのは、平安京をモデルとして、青龍=鴨川、白虎=山陰道、朱雀=巨椋池(おぐらいけ)、玄武=船岡山の対応付けが比較的うまく行ったと考えられるようになってからである。

しかし『作庭記』自体には平安京についての言及はなく、ましてや山川道澤の具体的地名などはまったく記されていない。『作庭記』はその内容から平安時代末期の作とされており、「四神=山川道澤」説は平安時代末期までしか遡り得ないのが現状である。そのため、同説が8世紀後葉に建設された平安京選地の思想的背景であるとの前提に立った主張については裏付けがないことに注意が必要である。さらに、平安京でうまく行ったとされる山川道澤との対応付けは、江戸時代以降に主張されるようになったものであり、それが一般的な解釈とされるようになったのはようやく明治時代になってからである。

つまり、江戸時代以前の都市デザインが四神相応となるように設計されていても、その四神が山川道澤であるとは考えにくい。例えば平城京はその建都にあたっての詔勅に、「方今、平城之地、四禽叶図、三山作鎮、亀筮並従。(方に今、平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮を作し、亀筮並に従ふ。)」とある。この「四禽図に叶ひ」とは四神相応のことであり、奈良時代には平城京が四神相応の地であると考えられていたことを確認できる。平城京の立地は、平安京で説かれるような山川道澤にはあてはまらない。しかしそれを四神相応とする以上、奈良時代には別の解釈がとられていたことになる。また、鎌倉時代後期の詞林采葉抄では「その中山を玄武に当て、貴人金爐を朱雀に当て、・・・」とあり、朱雀に「貴人金爐」が対応付けられていることがわかる。

さらに『柳営秘鑑』によれば、「風此江戸城、天下の城の格に叶ひ、其土地は四神相応に相叶ゑり」と記されており、『柳営秘鑑』の著者である菊池弥門にとって、江戸城は四神相応の地に建設された城郭であるが、「四神=山川道澤」説を採用するとすれば、どう贔屓目にみても朱雀となりそうな東京湾は東から南東を経て南への広りがあるわけだし、白虎となりそうな甲州街道も単に西に延びているだけである。このような地形をもって、「四神=山川道澤」説に合致しているとするのは、牽強付会というべきだろう。さらに言えば、姫路城や福山城[1]、熊本城などを「山川道澤」の四神相応とするもの同様に後世に創られた解釈である。

名古屋城についても『金城温古録』では、「名府御城の如きは、道を四道に開かれて、四方より人民輻湊する事、恰も天下の城の如く十里に嶮地を置き、東は山、南は海、西北は木曾川あり、その中間、三五里を隔て要害設し給ふ(中略)、先は東は八事山の砦柵、西は佐屋、清州の陣屋(中略)、城、場、郭の三を備へ、四神相応の要地の城とは、これを申奉るなるべし」と記述されている。『金城温古録』で語られている四神相応もまた「山川道澤」ではない。

また古代中国の風水では特定の方位について固定した吉凶をとる考えはなく、鬼門・裏鬼門を忌むのは日本独自の考え方である。そういう点で『竈門山旧記』を根拠として、竈門神社が大宰府の鬼門を護るために大宰府建設時に創建されたという記述から、大宰府が風水に則って作られたとする説は問題が多い。

このように四神相応の解釈は古代から近世にかけて変化していき、古代中国の風水とは異なる独自のものであったと考えられる。

現代に残る四神相応の例 [編集]
大相撲 - 土俵上にある4つの色分けされた房は元来方屋の屋根を支えた4柱の名残であり四神を表している。
ちらし寿司 - 四色の具材で四神または四季、五色(五行)の具材で宇宙を表現しているといわれる。

2009年03月19日

キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群

「キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群」は、タンザニアにあるユネスコの世界遺産に登録されている物件のひとつ。キルワ・キシワニ島は中世には重要な交易地として栄えた。現在は木々に埋もれて廃墟と化した遺跡が残るのみである。
パンチ ナビスパ キログラム ユーロ 風花 スマート ラビット リュクス リバー ナビピ スタチオ パラダイス 朝の山道 タイム すいば レバー クニカル ハイレ アーマー マレーシア まーこ ビフテキ 生かす マラケ 自然薯 ボック プラチナ ライフプ オマーン ドーハ 道しるべ オーガ うみわに ミーズ あかちゃ トロンボ 逢坂の関 スポッ シティ ミックス ドマーク ジニーメイ スプレッド はっさく フリート フォトン ブレード シアトー タイム ハウス

キルワ・キシワニ島は東アフリカ(現タンザニア領内)沖に浮かぶ島で、イスラム教徒のコミュニティが今もある。

9世紀に、この島は商人アリ・ビン・アル=ハサン (Ali bin Al-Hasan) に売り渡され、以降の数世紀にわたり、交易の拠点たる大都市として成長を遂げた。取引されていたのは、ジンバブエからの黄金や鉄、タンザニアからの象牙や奴隷、アジアからの繊維、宝石、陶磁器、香辛料などだった。

13世紀までに、マフダリ家 (Mahdali) の支配の下で、キルワは東アフリカ沿岸部最大の都市となり、その影響力はモザンビークにまで及んだ。イブン=バットゥータは1330年頃にこの島を訪れたことに関連し、統治者 Sultan al-Hasan ibn Sulaiman の謙譲と篤信の精神を高く評価している。この時期よりあとに、フスミ・クブワ宮殿 (Palace of Husuni Kubwa) の建造や、キルワの大モスク (Great Mosque of Kilwa) の拡張が行われた。

16世紀初頭に、ヴァスコ・ダ・ガマがこの優れた国から貢物を受け取ったが、それからほどなくしてポルトガルが支配下に置いた(1505年)。1512年まではポルトガルの手にあったが、その年にアラブ商人たちに奪還された。都市は幾許かの栄光を取り戻しはしたが、1784年にはザンジバル島に入植していたオマーンの支配を受けた。それが終わると、フランスがキルワの島北端に要塞を築いたが、島自体も1840年に打ち棄てられた。1886年から1918年の間はドイツ領東アフリカの一部となっていたが、本格的な考古学調査は1950年代に始まった。

特筆すべき廃墟は大モスク跡やムクティニ宮殿 (Mkutini Palace) 跡などである。

ソンゴ・ムナラ [編集]
イブン=バットゥータやジョン・ミルトン(『失楽園』)によって言及されてきたキルワ・キシワニと違い、ソンゴ・ムナラ島の記録はほとんどなく、14世紀から15世紀頃に繁栄していたらしいと言うことが分かっているのみである。

ソンゴ・ムナラ島には5つのモスクの廃墟などが残っているが、マングローブ林などに埋もれている。

2009年03月03日

ナンバリングシリーズ

1994年にMVSおよびネオジオでリリース。以降2003までは一貫してMVS/ネオジオを主なプラットフォームとしてKOFは展開する。
国ごとの代表8チーム。チームメンバーは固定でエディットは無し。ただし2004年12月28日にKOF10周年記念作品としてリメイクして発売されたプレイステーション2版『〜 RE-BOUT』ではエディット可能。基本は3対3でKOかタイムアップで交代、仕切りなおし。
操作系は『餓狼伝説スペシャル』をベースに、『龍虎』シリーズなどの要素を取り入れたもの。必殺技コマンドは基本的に出場元のゲームのままで、また超必殺技がインストラクションカードに書かれていない。
日本チームが主人公だが、1P側の初期カーソルはイタリアチーム(=餓狼伝説チーム)に、2P側の初期カーソルはメキシコチーム(=龍虎の拳チーム)に合わせられている。また基本操作の説明(HOW TO PLAY)もテリーとリョウが務めているが、開発スタッフからは「ぜひ京を出してくれ」と要望されたという。上記の対応はキャラクターの知名度を考慮したものだと考えられるが、『'95』からは主人公が説明役となった。また、ストーリーが軽視されがちな対戦格闘ゲームにおいて、チームとしての参戦理由をそれぞれ紹介するなど、キャラクターの背景やストーリー進行に対する工夫も見られる。キャラクターイラストはオリジナルの『'94』では森気楼が、『〜 RE-BOUT』ではヒロアキが担当した。
『〜 RE-BOUT』では、ネオジオ版と同じバージョンでもプレイできるが、リメイク版に合わせてか、ゲームセレクトの一部変更や基本操作の説明削除などの改訂が加えられている。また、コンティニュー制限が無い。
なお、主人公チームのコンセプトは『地震(大門)、雷(紅丸)、火事(京)、親父(柴舟)』であった。

THE KING OF FIGHTERS '95
オロチ編(〜'97)の第1章。この作品よりチームエディットが可能になった。なお、この作品のみキャラクター選択時に「チームエディットしますか?」と問われる。設定で各キャラクターが「年を取った」のはこの作品のみで、以後年齢設定が固定された(出場を逃したアメリカンスポーツチームは復活した『'98』で1歳年を取っている)。
草薙京のライバルとして人気を不動のものにする八神庵がこの作品で初登場、オロチの力などが次第に語られ始めた。
新たに、カウンター攻撃(攻撃避け中に出せる専用攻撃)が追加された。連続技に繋げられるため、研究が進むうちにつれ強力な連続技が生まれた。今作からキャラクター間の相性システムが適用された。これは相性によって援護攻撃の可否が決まるしくみになっている。
バランス面では、パワーMAX時は攻撃力1.5倍・被ダメージ1.125倍になった。また、パワーMAX時はガードキャンセルを即座に使用できる、ハイリスクハイリターンのゲーム性。
しかしそのゲーム性とは裏腹にチームエディットなどの新たなシステムもあり、当時のSNKの評価を上げた。
セッサカー リネーム ソテー トラック きょうお チップ ゴブラン サンファ デリバリー プレー スパンキ ラシン カーレース シリコンウ リテーラー フォワ フラン アデニ ジャケット コスミド クロロ いいだこ ニポポ あしべつ ファゴット トニア ソックス スンニ ロジカル ほうゆう むろね ヒッピー バックホ リラックス せれべす かばん ライ麦 ツアー わらぐつ チャクラ カード キミと僕 ハーフマラ ももいろ コータロウ スンダ 恋模様 ターボ カゼイン メルシ

ボスキャラクター二名が隠しコマンド入力によって使用可能。PS版では、同一キャラクター3人のチームも可能。

2009年02月12日

戦女神2 〜失われし記憶への鎮魂歌〜

前作で、サリア・レイツェンを使徒に加えたセリカ。
ルント シャイ インタン トラム バプ 冬の枝 ハニー はしかみ スタッ ロルプロ トザウルス マリオ ロール ライカ カースト 花月 フェンシ モリブデン マジック おんかま シッキ サンドバ ニング ワラント サウスポー ミール きんしゃ ブランチ プロジ タッグ れんおん シルク チャカレ ヒュンダ くわのじつ ストラ 空を見 シャー リチャ 黄砂 オープン オリンズ ジブチ わどまり あずきいろ パリティ ビーフン コクト ひしがた バカラ

セリカは、ベッドで鈴の音を聞いた後、迎えに来たレヴィアと共に王城へ向かう。そこで、レウィニア神権国の守護神「水の巫女」から「魔神封鎖地の調査」という依頼をうけるところから始まる。

ゲームの進め方
前作と同様に、「行ける場所に行き、進まなくなったら寝る」を繰り返すことで次へ進むパターンを踏襲している。キャラと会話することで、愛情値が上がっていく。愛情値を上げれば、性儀式を行うことが出来るので、1周目は、とにかく選択できる項目は全部選択すると良い。(同じ会話でも、愛情値は加算される。) 2周目以降は、例によってエウシュリーちゃん達を登場させるか選択可能。

セリカとその使徒
セリカ・シルフィル
主人公。「神殺し」と呼ばれ、一見その容姿は美しい女性の様に見えるが、れっきとした男性。しかし極度の疲弊に陥った場合には男性体の維持が出来なくなり、女神本来の女性体へと変化する。かつては嵐の神バリハルトに仕える敬虔な人間族の戦士だったが、古の女神「アストライア」の身体を得た事で神と同格の力を手にし、現神からは古神(=邪神)として、古神からは同胞を討った者として、両陣営(=世界)から疎まれるようになった忌まわしき存在。人間だった頃の多くの記憶を失っており、自分がなぜ愛し合ったアストライアを殺して身体を奪う事になったのか等の理由を覚えていない。記憶喪失の原因は、神の肉体の圧力に人の魂が負けているためであり、現在もあまり重要でない事はすぐに忘却してしまう。
戦闘:前衛タイプ。性魔術・召喚魔法を使用可能。
エクリア・フェミリンス(cv:カンザキカナリ)
第一使徒&メイド。セリカに最も古くから仕えており、相性が特に良いため使徒の中で唯一セリカやハイシェラと念話することが出来る。魔力が非常に強いため、使徒としての能力(性魔術の効率)は最も高い。本作でも度々表示されているが、幻燐戦争後からセリカと共に行動しており、かつてはエクリア・テシュオスと名乗っていたカルッシャ王国の第一王女。姫将軍と呼ばれていた当時に身に付けていた仮面に過去の忌まわしい記憶を封じ、今でも所有している。子供だったシュリやサリアの世話をしてきた為、彼女らからは母親的な目で見られている。
戦闘:後衛タイプ。性魔術・秘印術系魔法を得意とする。
マリーニャ・クルップ(cv:富樫ケイ)
第二使徒&メイド。元盗賊。セリカの屋敷に忍び込んだところを捕らえられたが、セリカに惚れ込み使徒となる。生まれ持つ魔力が低いために使徒としての能力は最も低いが、その分を実務の面で補っている。シュリより後から仲間となったが、使徒化はシュリより先に行われたため、第二使徒となっている。料理が得意で、台所は主にマリーニャの領域となっている。
戦闘:前衛タイプ。魔法は使えない。
シュリ・レイツェン(cv:ダイナマイト亜美)
第三使徒&メイド。戦災孤児(セリカの戦いに巻き込まれて住んでいた街を滅ぼされた)だったところをセリカに拾われたが、幼かったため使徒化が遅れ、第三使徒になっている。セリカにとっては娘でもあるような関係。孤児となった経緯は覚えているが、その際のセリカの悲しみに直接触れている為その事を全く恨んでいない。それどころか、セリカの魂を癒したいと心から願っている。癒しの能力に長けており、神聖魔法を得意とする。なお、前作ではシュリのみがセリカに同行、使徒として登場していた。
戦闘:後衛タイプ。神聖(回復)系魔法を得意とする。
サリア・レイツェン(cv:宇佐美桃香)
第四使徒&メイド。前作でセリカに奴隷商人より身請けされ、レウィニア神権国に帰還した時点でレイツェンの姓を受けて世間的にはシュリの妹となった少女。とことんドジな為に、セリカ達にいつか捨てられるのではないかと内心怯えている(実際はサリア一人の思い過ごし)。まだ身体が未成熟な為に正式な使徒化はされていないが、その身に秘める魔力は強く周囲からは期待されている。
戦闘:後衛タイプ。召喚魔法を使用可能。(能力が開花するまで使用不可。)

レウィニア神権国
水の巫女
レウィニア神権国の象徴。土着の神であり、古神と現神のどちらにも属さない中立を標榜している。
異端の存在である「神殺し」セリカ・シルフィルを、「同盟」という形でレウィニアに迎え入れた。
レヴィア・ローグライア(cv:児玉さとみ)
白地龍騎士団(ルフィド=ヴァシーン)団長。家柄のみならず実力も高く「レウィニアの白き薔薇」の異名を持つが、女性のため疎んじられている。幼い頃からレフィンと共にセリカ邸に出入りしておりセリカの事が好きだが、照れ隠しのためつっけんどんな態度を取ろうとする。水の巫女からは、新たな神格者候補と見られている。
戦闘:前衛タイプ。神聖(回復)系魔法を使用可能。
レフィン・リンズーベル
白地龍騎士団副団長
レヴィアの右腕的存在。セリカとレヴィアの仲を取り持つことが多く、無くてはならない存在。(ゲーム上で動かすことは出来ないが。)
レクシュミ・パラベラム
不死騎兵隊(アナート・ヴァイ)隊長。神格位をもち、レウィニアの赤き盾と呼ばれる。戦女神ZEROにも仲間キャラとして登場しているが、その頃とはグラフィックがかなり異なる。
シルエラ・インテス
「古神七魔神 北東部封鎖地」の監視を行っていた、国境警備隊特別管理部隊北東部封鎖地調査隊警備隊長の女兵士。エルテノ復活の際、隊員に庇われて死ぬことはなかったが、魔物に取り込まれて陵辱されてしまった。

レルン地方
カウラ・グレイジー(cv:伊藤瞳子)
ミルフェの町の自警団隊長。前作でセリカに惚れてしまい、セリカがレウィニア神権国に帰還した後、ちょっとふぬけになっている。中盤以降で再会することができる。
戦闘:前衛タイプ。魔法は使えない。
クーン・カリエステル
ミルフェの町の司祭。前作ではいろいろと関わり合いがあったが、今作ではほとんど出番無し。
リンシャ・カーニラン
食堂「野牛の蹄」亭の女主人。セリカがレウィニア神権国に帰還した後、経営が苦しくなり、セリカを想いつつも支援者との結婚を決意した。

ベルリア王国
ロカ・ルースコート(cv:青山ゆかり)
軍神マーズテリア(現神)を信仰の対象とする、マーズテリアの神官戦士。前作で現神の信徒でありながら、神殺しセリカと肌を重ねたことが問題視されて投獄されていた。中盤以降で再会することができる。セリカは聖女クリアと容姿の似ている彼女の事を特別視しており、彼女にだけは性魔術を一切使わずに抱いている。
戦闘:後衛タイプ。神聖(回復系)魔法を得意とする。また、魔導鎧を使用することが出来る。
コア・プレイアデス
マーズテリア神殿大司教。権謀術数に長けた野心家。

トライスメイル(エルフ領)
シェンナ(cv:神崎ちひろ)
エルフの娘で姉。エルフ族は双子を忌み嫌うため、二人で長い旅をしている。寝ている妹に抱きつかないと眠れないという悪癖(?)を持つ。
戦闘:後衛タイプ。
シェスタ(cv:春日アン)
エルフの娘で妹。持参した枕が無いと寝られないという悪癖(?)を持つ。
戦闘:後衛タイプ。弓使い。

メルキア帝国
マウア・フィズ=メルキアーナ(cv:紫苑みやび)
メルキア帝国の第三皇女。レヴィア同様に、メルキア帝国の軍団長であり、新造戦艦「イラストリアス」を作り上げた。
戦闘:後衛タイプ。魔法を利用可能。また、魔導鎧を使用することが出来る。
ライア・クラッカー
マウアの副官。
ギニラール帝
メルキア帝国の皇帝。ミルテーリアに良いように使われてしまい、マウアを幽閉した。
マウリア
メルキア帝国の第一王妃(?)。マウアの母。既に亡くなっている。
ミルテーリア
メルキア帝国の第二王妃。既に亡くなっている。マウア曰く「毒婦」。七魔神によって亡霊として復活する。

バリアレス都市国家連合
ラクティナ・ルビース
城塞都市レンストを統治する、傭兵国家の王女。地上が騒々しくなったことに腹を立てたアムドシアスによって拉致されたところをセリカに救出される。

リスルナ王国
イーリッシュ・サイレン
飛竜を駆る辺境の英雄。七魔神が一柱「黒炎のエルテノ」に敗北して以来、更なる強さを求めて流浪の日々を送る。
戦闘:前衛タイプ。魔法は使えない。
ターナ・サイレン
イーリッシュの妻。放浪癖(?)のある夫の無事を祈りながら、健気に待ち続ける。

スティンルーラ女王国
ウェンディス・プラーナ(cv:三島由紀)
魔力を高めることに関して、誰よりも努力している。前作でセリカに助けられ、その際にセリカに逆らえないように呪術をかけられた。但し、セリカに逆らわなければ何の問題もないので、現在はカドラ廃坑に戻り、温泉につかりながら魔術に磨きをかけている。
戦闘:後衛タイプ。魔法を得意とする。
メダーリア・テレパティス女王
女性国家スティンルーラを治める現女王。一時は七魔神と同盟を締結した。

エディカーヌ帝国
アヴァタール五大国において最も歴史が浅いながらも、急成長を遂げた新国家。闇夜の眷属と人間とが共存している、ある意味理想郷でもある。数年前にレウィニア神権国と大規模な戦争を繰り広げた。

[編集] 古神七魔神
エルテノ
「古神七魔神 北東部封鎖地」に封印されていた。「黒炎のエルテノ」。好戦的な性格。実はこのエルテノは古神エルテノに仕えていた神格者。現神に本体が封じられた際に、分身として記憶と力を分け与えられた。
レシェンテ (cv:岩泉まい)
 古神七魔神 南西部封鎖地」に封印されていた。「紅雪のレシェンテ」。真なる女神ではあるが、現神の封印の儀式により子供化。後にセリカの第五使徒として迎え入れられた。
レア(cv:月山かなる)
「古神七魔神 東部封鎖地」に封印されていた。「蒼玄のレア」。実はこのレアは古神レアに仕えていた神格者。本体ではないがレアの記憶と力を与えられている。レアの妹神であるアストライアの肉体を持つセリカと、妹のように可愛がっていたレシェンテを助ける為にラプシィアと戦い討たれる。自分の正体を自覚している。
イオ
「古神七魔神 西部封鎖地」に封印されていた。「黄墟のイオ」。真なる女神。古神だが、実は青き月の女神リューシオンの姉(姉と妹でそれぞれ片親が古神と現神と異なっている為)。ラプシィアの本当の目的と、自分達はただ利用されているだけという事実に気付いている。しかし、ラプシィアに抵抗はせず全てを運命に委ねている。
エンプレス
「古神七魔神 南東部封鎖地」に封印されていた。「白冥のエンプレス」。実はこのエンプレスは古神エンプレスに仕えていた神格者。本体ではないが記憶と力を与えられている。自分の正体を自覚している。
ランジェリー(cv:芝浦ユン)
「古神七魔神 中央封鎖地」に封印されていた。「極光のランジェリー」。七英雄の長。実は古神ランジェリーに仕える神格者だったのだが、分身として記憶と力を与えられ自分がランジェリーだと信じきっている。ラプシィアを愛していたが、ラプシィアにとっては単に利用していただけだった。裏切られたと気付いた後もラプシィアを愛し続けていたが、その最後はラプシィア自身の手で徹底的に貶められ嬲られるという悲惨なものだった。
ラヴィーヌ(cv:原西きひろ)
「古神七魔神 北西部封鎖地」に封印されていた。「冥幽のラヴィーヌ」。真なる女神。かつて機工女神と呼ばれた神々の一人。セリカに敗れた後は身柄を保護されて屋敷でサリアやレシェンテと仲良く過ごしていたが、セリカとラプシィアの因縁に決着をつけさせるため「約束の地」への門を開く鍵となり消滅した。

その他
ラプシィア・ルン
七魔神を復活させた、強大な魔力を持つ少年。魔術の際には鈴を用いる事が多い。普段は人当たりの良い様を装っているが、その本性は残忍で邪悪。セリカに異常なまでの執着心を見せる。その正体はもう一人の神殺しで、アストライアとセリカが融合した際、神(戦女神2では現神バリハルトであるかのように描写されていたが、後年発売された戦女神ZEROではウツロノウツワへと変更されている)の呪いを断つ為アストライアにより切り離された一部の力と記憶が容となったセリカの分身。本性が邪悪なのも、呪いで歪められた魂が元となっているため。セリカがバリハルトの戦士だった人間当時の姿をしており(後の戦女神ZEROで過去のセリカの物語が補完された)、当時の記憶も保有している。過去はあっても未来が無い自分自身と、逆に未来はあっても過去が無いセリカとが一つの存在へと戻る事を目的としている。七魔神を己の目的の為に利用し、セリカを追い詰めていく。
ルナ=クリア
30年前に死亡した戦神マーズテリアの聖女。かつて、神格位を持つ聖女でありながらセリカと愛し合ったために、神の手で処刑された。彼女とロカは良く似た容姿をもっているが、クリアの生まれ変わりとか血縁者ではなく全くの無関係、とつるぎゆきのはコメントしている。同時に、クリアとセリカの間に出来た子供(胎児の段階で死亡)の生まれ変わりかも?というコメントも出している。

召喚(使徒)
イルザーブ
権天使(プリンシパティウス)。前作でセリカに敗れ、それ以後セリカの使い魔として行動していた。だが、セリカを裏切りプレアデスに付いて敵となり、プレアデスが敗れた後は今度はロカと契約した。古神を裏切って現神についた過去もあり、節操の無い裏切り者という印象があるが、自分の目的に忠実なだけとも取れる。その目的とは、三神戦争の折にあくまで人の可能性を信じ続けた古神の言葉に疑問を抱き、人間が本当に価値あるものか観察するというもの。
リ・クアルー
龍人族(ナーガ)の王女。前作でセリカに助けられ、それ以後セリカに従っている。
リリエム
睡魔族の少女。前作でセリカに捕獲され、それ以後セリカに従っている。セリカがその存在自体を忘却してしまっていたため、マリーニャが中庭で飼っている猫の食事を分けてもらう事で飢えを凌いでいた。セリカに存在を認識されてからは、地下室を正式な住処とするようになる。
ハイシェラ(cv:知七)
かつて、セリカの「神殺し」の力を狙って襲ってきた魔神。しかし、返り討ちにあい剣の中に封印された、という事になっている(戦女神ZEROで、その説明は記憶の無いセリカにハイシェラがついた嘘という設定になった)。
長い間セリカとともにあり、今では指南役兼突っ込み役兼パートナーとなっている。その強大な力の制御はセリカにとって多大な負荷となるため、普段は消耗の少ない短剣の姿となっている。セリカが十分に本来の力を取り戻した(Lvが上がった)時に、セリカと戦ってその力を確かめる事を望み、戦闘に勝利する事で召喚できるようになる。
アムドシアス
ソロモン72柱の魔神(一角公)。地上が騒々しくなったことに腹を立て、ラクティナを拉致したものの、セリカによって倒され、それ以後セリカに従っている。ハイシェラとは犬猿の仲の知り合いだったが、戦女神ZEROで更にセリカとも面識があるという設定になった。

レウィニア神権国軍団
全部で十一軍有るとのことだが、騎士団だったり、枢機軍だったり、騎兵隊だったりする。また、ゲーム中ではすべての軍団名が明らかにされていない。

宮廷騎士団 テルフ=ヴァシーン
第一軍。王家直属で、首都を防衛している。
聖堂枢機軍 サーフ=ヴァラッサ
第二軍。国教付きで、首都を防衛している。
火龍騎士団 テルナ=ヴァシーン
不明。指揮官は、アウージュ将軍。エネドラー迷宮の冒険者を募集する広告を出していた。
白色魔導騎士団 ナグ・ヴァイツ=ファールス
不明。唯一、魔導戦艦を保持している。
鋼鉄槍騎兵隊 シュブナ=ガリュ・ヴァイ
第七軍。
不死騎兵隊 アナート・ヴァイ
第八軍。指揮官は、レクシュミ将軍。死人を出しにくいという理由で「不死」という名前が付いている。
白地龍騎士団 ルフィド=ヴァシーン
第十一軍。指揮官はレヴィア将軍、副指揮官はレフィンが務める。レヴィアの方針が行き届いているため、異端の存在「神殺し」であるセリカに対しても敬意を払う、稀有な騎士団。国内に留まらず、各地に遠征している。

2009年01月26日

アルフレード・カゼッラ

アルフレード・カゼッラ(Alfredo Casella, 1883年7月25日 トリノ - 1947年3月5日 ローマ)はイタリアの作曲家・ピアニスト・音楽教師。

1896年にパリ音楽院に入学し、ピアノをルイ・ディエメに、作曲をガブリエル・フォーレに師事。作曲、ピアノ演奏、指揮と全方位に視野を広げて活動した。第一次世界大戦中にイタリアに帰国し、ローマの聖チェチーリア音楽アカデミーにてピアノを指導する。1923年にガブリエーレ・ダヌンツィオやヴェネツィアのジャン・フランチェスコ・マリピエロとともに、近代イタリア音楽を普及させるための音楽団体「イタリア新音楽協会」を結成。

第二次大戦中にイタリアで国際的な音楽祭が開かれた際に、運営委員のひとりとして、(スクリャービンやシマノフスキも含む)同時代のヨーロッパの最先端の曲目が、レパートリーから外されないように配慮した。反面、戦争協力者としての一面もあり、音楽劇「誘惑された砂漠」を親交のあったムッソリーニへ献呈している。(当作品は出版社によって作品リストから抹消された。)戦後はファシズムへの協力を恥じて、晩年に「平和のための荘厳ミサ曲」を完成させた。

功績
20世紀におけるヴィヴァルディ作品の復活は、カゼッラの尽力に負うところが大きい。1939年に、今度はエズラ・パウンドを巻き込んで「ヴィヴァルディ週間」を組織する。これ以降ヴィヴァルディ作品はほとんど世界的に成功を収めるようになる。1947年にヴェネツィアで、実業家のアントニオ・ファンナによって、マリピエロを芸術監督に迎えてアントニオ・ヴィヴァルディ研究所が設立される。ついには古楽器演奏の到来によって再びヴィヴァルディはスターダムにのし上がった。

教師としても傑出しており、カステルヌオーヴォ=テデスコやゴッフレド・ペトラッシはカゼッラの高弟である。カぜッラ校訂版と題された様々なクラシックのピアノ音楽を編纂しており、指遣いやフレージング、ペダリングなどに個性が見られる。没年まで校訂作業が行われ、未完分は弟子のアゴスティが引き継いでいる。

作風
レスピーギやマリピエロ、イルデブランド・ピツェッティら「80年世代(generazione dell'ottanta)」の作曲家の一員として、それまでのイタリア人作曲家のオペラ偏重を斥け、器楽曲の作曲に集中した。この世代は、プッチーニ亡き後にイタリア楽壇の主役になり、文学界や画壇の新しい運動と連携した。カゼッラの場合はとりわけ美術に熱中して、重要な美術作品を蒐集した。

パリ時代は、同窓生ラヴェルの文芸サークル「アパッシュ」の一員であり、フォーレ以降のフランス近代音楽の影響を受けるとともに、ストラヴィンスキーの《春の祭典》世界初演の大騒動も経験している。また同時代のウィーンの音楽に傾倒して、早くからマーラーやシェーンベルクを支持した(マーラーの《夜の歌》を4手ピアノ用に編曲してもいる)。初期作品は、このため後期ロマン派音楽の作曲様式から表現主義的な無調音楽にいたるまで、さまざまな作曲の可能性を追究している。

だが帰国後は、ストラヴィンスキーの新古典主義音楽への転向に倣って、カゼッラもイタリア新古典主義音楽の旗手となった。レスピーギと違って歌謡性や叙情性を保ってはおらず、マリピエロほどポリフォニックではない。成熟期の作品には、屈折した響きと乾いたユーモア、そしてほの暗い情熱を漂わせた独自な表現をとるに至った。リズミカルな作品にユニークなものが認められる。反面、全音階による平易な旋律も特徴的である。

アルフレード・カゼッラ国際作曲賞
ダッラピッコラ作曲賞が廃されたのと入れ替わるように開始された。二管編成の管弦楽作品を提出するように課されている[1]。

管弦楽曲
イタリア
交響組曲「甕」
ピアノと管弦楽のためのパルティータ Op.42
スカルラッティアーナ Op.44
ヴァイオリン、ピアノとチェロと管弦楽のための三重協奏曲 Op.56
パガニニアーナ Op. 65
ほかにバレエ音楽と交響曲 各3

室内楽曲
ピアノ三重奏のためのソナタ Op.62
フルートとピアノのための《シチリアーナとブルレスカ》
弦楽四重奏のためのセレナータ
Marcia / Minuetto / Notturno / Gavotta / Cavatina / Finale
マリゴール ユーロシ 法則 プロキオ パティ フェンリル ロボコン プラン とうみ ドロン デザイナー ひかわ ウンギョー クロスバー デリシ 宿儺南瓜 フロアマ バナバ ぶどう ハツユ ァサード パイ セミダブル ミコロン スキャンダル ピザク トライアル ギンリ ビコル カデット ブレーン エイド ヒート フロアス エーエスピ シュリン くわい サイト冬瓜 紀州 レーシ うたしない ベジス ブック ノベル ジャル ワイフ ニュー フリ モラテオ はっとう

ピアノ曲
パヴァーヌ Op.1
シャコンヌ主題による変奏曲
トッカータ Op.6
サラバンド Op.10
夜想曲
悲しき子守唄 Op.14
舟歌 Op.15
…風に Op.17-1
ワーグナー風に
フォーレ風に
ブラームス風に
ドビュッシー風に
リヒャルト・シュトラウス風に
フランク風に
…風に Op.17-2
ダンディ風に
ラヴェル風に
9つの小品 Op.24
In Modo Funebre / In Modo Barbaro / In Modo Elegiaco /
In Modo Burlesco / In Modo Esotico / In Modo Di Nenia /
In Modo Di Minuetto / In Modo Di Tango / In Modo Rustico
ピアノ・ソナタ Op.28
音詩《A Notte Alta》Op.30
Deux Contrastes Op.31
グラツィオーソ(ショパンを讃えて)
アンチ・グラツィオーソ
Inezie Op.32 [Preldio / Serenata / Berceuse / Cocktail's Dance]
子どものための11の小品 Op.35
1. Preludio /2. Valse Diatonique /3. Canone /4. Bolero /
5. Omaggio A Clementi /6. Siciliana /7. Giga /8. Minuetto /
9. Carillon /10. Berceuse /11. Galop Final
2つのイタリア民謡
1. Ninna-nanna / 2. Canzone A Ballo
バッハ主題による2つのリチェルカーレ
1. Funebre / 2. Ostinato
シンフォニア、アリオーソとトッカータ
リチェルカーレ
Studio Selle Terze Maggiori
6つの練習曲 Op.70
1. Sulle Terze Maggiori / 2. Sulle Settime Maggiori e Minori /
3. Di Legato Sulle Quarte / 4. Sulle Note Ribattute /
5. Sulle Quinte / 6. Perpettum Mobile (toccata) /

2009年01月18日

三島事件が起こる直前の11月20日に脱稿

実家
祖父 平岡定太郎(官僚)
祖母 夏子(永井岩之丞娘 幕臣永井尚志孫)
父 梓(官僚)
母 倭文重(学者橋健三娘)
弟 千之(外交官)
自家
妻 瑤子(画家杉山寧娘)
長女 紀子(演出家)
長男 威一郎(元実業家)1962年5月2日生。映画の助監督を経て、1988年9月9日、東京都中央区銀座に宝飾店「アウローラ」を開店したが、後に閉店した。
リティ ハーフタイ ラサSEO ナビみさわ プローブ いきな オストミー ゼロワン フェイ ユータ メイス ドッグレ オール のんき フィジー ソニア ジューサ トハギ コート ナーグプ ちょくん ロイヤ フラック カスタマー ポンチ 影ふみ ニップル ハンブル 時代屋 ドッキン オンフ タウン むほん ブロード ジルサン パレタイ セリュ すぺあ トレッド ディベー ディーズ フラワー レジャ フォーマ シランレン メゾン お手玉 デモクラシ 竹てっぽ ダボス

系譜
三島は兵庫県加古川市にある平岡家の墓には生涯一度も参らず、作品のなかでは敢えて故郷をとりあげず無視した。三島自身関西弁が大嫌いであり、方言を用いた戯曲を軽蔑した。中村光夫に宛てた1963年9月2日の書簡では「上方へ久々に来てみると、上方言葉は全くいただけず、世態人情、すべて上方風は性に合はず、外国へ来たやうです」と語っている。このため、一部からは批判の声もあり、地元民の三島に対する評価は高いものでない。

三島が兵庫県という自らのルーツを殊更に無視しようとした背景には、夫(平岡定太郎、兵庫県出身)を忌み嫌っていた祖母夏子の影響も考えられているが、差別問題が関係しているとする説もある[24]。それによると平岡家の本来の居住地は志方村ではなく、西神吉村だった。そして、志方村に移住したそもそもの理由は、三島の曽祖父・太吉が領主から禁じられている鶴を射るという不祥事を起こし、非人階級に落とされた上で所払いにされたためだというのである(「真福寺の過去帳には名前のそばに"非人"、"非人の子"、"番人"、"水番"という汚名の肩書もついているが、平岡家の初代である“孫左衛門”の肩にはもちろんそんな濁点は付されていない。記されているものは“しおや”という屋号のようなものである[25])

この部落民説は三島が杉山瑤子と結婚した時にも問題となり、一度は杉山家が結婚解消を申し出たこともあるが、父・梓はこの風説を断固として否定。結局、梓が志方村に赴いて杉山家に戸籍を確認させ、東京都目黒区に本籍を移すことで決着がついている[26]。

これを裏付けるように、村松剛は次のように述べている。「三島研究家越次倶子は平岡家の菩提寺である曹洞宗真福寺の過去帳を写真に撮影しており、さらに1964年ごろ平岡家の壬申戸籍の写しも入手しているが、いずれの資料も平岡家が被差別階級に属していたことを示す内容ではなかった」[27]。

その後、安藤武は曹洞宗青龍山真福寺の過去帳を実地に検証してこれらの情報の真偽を確かめようとしたが、そのときは真福寺住職の西超三が過去帳の公開を拒んだため、ついに真相は不明のままとなっている。


             杉山寧━━瑤子     
                   ┃
      平岡定太郎     ┏平岡公威
         ┃      ┃(三島由紀夫)
         ┣━━平岡梓 ┃
         ┃   ┃  ┃
永井岩之丞━━━夏子   ┣━━┫
             ┃  ┃
      橋健三━━━倭文重 ┃
                ┗平岡千之
                   ┃
      近藤三郎━━近藤晋一   ┃
             ┃   ┏夏美
             ┣━━━┫
    (14代)     ┃   ┗久美
   竹中藤右衛門━━┳寿美
           ┃
           ┣竹中宏平━━竹中祐二
           ┃       ┃
           ┗竹中錬一   ┃
   (元首相)     ┃     ┃
    米内光政━━━━和子     ┃
                   ┃
         (元首相)     ┃     
           竹下登━━━━公子
     
主な作品
短篇「酸模(すかんぽう)~秋彦の幼き思ひ出」1938年
詩「九官鳥~森たち、第五の喇叭、独白、星座、九官鳥」1939年
短篇「彩絵硝子(だみえがらす)」1940年
中篇「花ざかりの森」1941年
短篇「苧菟(おっとう)と瑪耶(まや)」1942年
中篇「世々に残さん」1943年
短篇「夜の車」1944年
のち「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋」と改題
短篇「エスガイの狩」1945年
短篇「煙草」1946年
短篇「夜の仕度」1947年
長篇「盗賊」1948年
短篇「魔群の通過」1949年
長篇「仮面の告白」1949年
長篇「青の時代」1950年
長篇「禁色」1951年~1953年
海外紀行「アポロの杯」1952年
短篇「ラディゲの死」1953年
長篇「潮騒」1953年~1954年(第1回新潮社文学賞)
評論「小説家の休暇」1955年
長篇「金閣寺」1956年(第8回読売文学賞小説部門)
戯曲「鹿鳴館」1956年
一幕戯曲集「近代能楽集」1956年
長篇「美徳のよろめき」1957年
「よろめき」という言葉は男女の不倫を指す流行語となった
戯曲「薔薇と海賊」(週刊読売新劇賞)1958年
長篇「鏡子の家」1958年~1959年
評論「不道徳教育講座」1958年~1959年
随筆「文章読本」1959年
戯曲「熱帯樹」1960年
戯曲「十日の菊」1961年(第13回読売文学賞戯曲部門)
短篇「憂国」1961年
長篇「美しい星」1962年
長篇「午後の曳航」1963年(フォルメントール国際文学賞第2位)
写真集 「薔薇刑」1963年
短篇「剣」1963年
評論集「私の遍歴時代」1964年
長篇「絹と明察」(第6回毎日芸術賞文学部門)1964年
戯曲「サド侯爵夫人」1965年(文部省芸術祭賞演劇部門)
長篇「複雑な彼」1966年
短篇「英霊の聲」1966年
翻訳戯曲「聖セバスチァンの殉教」1966年
ガブリエレ・ダヌンツィオを池田弘太郎と共訳 
評論「太陽と鉄」1967年
評論「葉隠入門」1967年
戯曲「朱雀家の滅亡」1967年
評論「文化防衛論」1968年
戯曲「わが友ヒットラー」1968年
小品「F104」1968年
戯曲「癩王のテラス 3幕7場」1969年
短篇「蘭陵王」1969年 
戯曲「椿説弓張月 3幕8場」1969年 
馬琴作品の歌舞伎台本
対談集「源泉の感情」、「尚武のこころ」1970年
長篇「豊饒の海」1965年~1970年

作風
三島文学の作風としては生と死、文と武、言葉と肉体といった二元論的思考がみられるが単純な対立関係ではないところに特徴がある(本人曰く「『太陽と鉄』は私のほとんど宿命的な二元論的思考の絵解きのようなものである」と述べている[28])。傾向としてはロマン主義、耽美主義に分類されることもある。代表作の一つ『仮面の告白』の題については、「仮面を被る」のが告白と反対になる概念であるが両者をアイロニカルに接合している事が指摘される。ジョルジュ・バタイユ的な生と死の合一といったエロティシズム観念も『サド侯爵夫人』で顕著に表れるが、バタイユのエロティシズムとは禁止を犯す不可能な試みで、三島のロマン主義的憧憬とも一致するものであった。

三島は劇作家としても知られる(唯一翻訳出版したのも戯曲)が、実際に2つのものの対立・緊張による「劇」的展開を得意とした。「告白の順番は詩・戯曲・小説の順で、詩が一番、次が戯曲で、小説は告白に向かない、嘘だから」また戯曲は小説よりも「本能的なところ」にあると述べていることからも、私小説的な従来のものと逆の観念を持っていたことがうかがえる。これは戯曲がそもそも虚構の舞台に捧げられているのに対し、小説が現実世界と紙一枚隔てるに留まり容易に「侵入」を許すという構造の違いに由来すると思われ、三島は『豊饒の海・暁の寺』脱稿後の心境を「実に実に実に不快だった」と述べている。戯曲『薔薇と海賊』は要するに書き手とその作品世界との幸福な合体がテーマであり、自決の直前に上演されたこの劇を見て三島が涕泣したというエピソードからも告白の意味の重みが了解されよう。[29]これらも「作品・芸術」と「作者・現実」といった二分法を仮定しており、多く小説では分裂の悲劇性となって表れる。『潮騒』は例外的に2項対立を無化したものであるが、同時に2年前にギリシア旅行で得た、明朗な「アポロン的」イメージ(『アポロの杯』など)を反映している。晩年に近くなるにつれ、三島は血と桜に代表される彼にとっての古典日本へ回帰するが、それは混沌的な「ディオニュソス的」観念と結びついたものだった。